ダッカにて(3)
写真は、ダッカで泊めてもらっていたAさんのマンションの居間。
ベタギ村の標準的な家との、あまりの落差に驚く。
田舎には電気も水道もガスもない。テレビなんてもちろんない。家はたいて平屋藁葺きで、室内は土間。
それに比べて、Aさん宅には、冷蔵庫、テレビ、ステレオセット、各部屋にシャワー室。いつもピカピカに磨かれた石の床には豪華なペルシャ絨毯。そして、それを掃除するための電気掃除機もあった。
1993年5月1日
このマンションの屋上からダッカの街を見下ろしている。今日は金曜日なので、休日。でも、街には活気があふれている。モスクから夕刻のコーランの声が聞こえてくる。これを聞くと、ああイスラムの国に来たのだなあと思う。
嵐のあとの涼しい風、合歓(ネム)の大木、ポラーシュ(火焔樹?)の大木、マンゴーの花... 異国での美しい夕べのひととき。
夜、この家でホームパーティ。18人ぐらいの人が来た。ビジネスマンや医者など、典型的な上層社会の面々。日本に5年もいたという夫婦から、薔薇とジャスミンの花束をもらった。
スリランカの大統領が暗殺された。
1993年5月2日
ここでは、みんなだいたい夜の10時頃に晩ご飯を食べ始める。私はまだこの遅い夕食に慣れなくて、6時か7時頃にはもうお腹がすいてきて困ってしまう。
※ あとでよく考えると、この時期ちょうどラマダン(断食月)で、太陽が出ている間は飲食ができない時期だったような気もする。ラマダンのときは、夜遅くから、こうやって誰かの家に集まって夜通し飲み食いし、次の日の断食に備えるという話だった。Aさんはあまり何も説明してくれない人だったので、他の人から聞いた話から想像するに、きっとこのときはラマダンだったのだ。
1993年5月3日
10歳ぐらいの男の子が、Aさんの使用人として住み込みで働いている。買い物から料理、掃除・洗濯に至るまでほとんど1人でやっている。彼のお母さんは村にいて、お父さんはダッカのどこか他の家で、やはり使用人として働いているのだそうだ。
ダッカの上・中流階級の家ではどこでも、少なくとも1人か2人の使用人を雇っているらしい。こんな小さな子を雇っている家もけっこうある。もちろん、この子たちは仕事で忙しく、学校へは行かない。
ここの使用人の男の子、アブルは仕事をしながら歌を歌う。聞いていると、なかなか上手い。Aさんにそのことを言うと、アブルが歌うところなど聞いたことがないと言う。そうか、雇い主の前では歌わないんだ。歌は、ひとりだけの楽しみなんだな。
1993年5月8日
いま私は、ここの上層社会の内部から外を見ているように思う。上層社会!日本ではまったく縁のない社会。こちらでは本当に上・下が分かれている。今日のお昼、工場を見せてもらったときに会った、あのお医者さん、大きな家をダッカに6つも持っているらしい。おまけにあの大きな工場。ケタちがいの世界。日本人は、この社会では、誰であろうと自動的に「上」のカテゴリーに入れられてしまうようだけど、あんまり気持ちのいいものではない。第一、私は慣れてない。
ベンガル語には、3種類の命令形がある。最も丁寧な言い方は目上の人に対して、その次のは家族や友人に対して、一番丁寧でない言い方は小さな子どもや使用人に対して、という具合に。召使い文化(?)のない日本から来た私にとっては、この3番目の言い方を使うのに抵抗を感じる。アブルにものを頼むときに。
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