Bengal Report

1993年から1994年にかけて、バングラデシュとインド(西ベンガル州)に滞在した。いちおうベンガル語の学習という名目の「留学」だったが、本当の目的は、これら2つの国にまたがるベンガル地方の文化や自然を身体で感じることだった。とりわけこの地方の人々の信仰に興味を抱いていた。これはそのときの滞在記。

January 20, 2007

ダッカにて(3)











写真は、ダッカで泊めてもらっていたAさんのマンションの居間。
ベタギ村の標準的な家との、あまりの落差に驚く。

田舎には電気も水道もガスもない。テレビなんてもちろんない。家はたいて平屋藁葺きで、室内は土間。


それに比べて、Aさん宅には、冷蔵庫、テレビ、ステレオセット、各部屋にシャワー室。いつもピカピカに磨かれた石の床には豪華なペルシャ絨毯。そして、それを掃除するための電気掃除機もあった。


1993年5月1日

このマンションの屋上からダッカの街を見下ろしている。今日は金曜日なので、休日。でも、街には活気があふれている。モスクから夕刻のコーランの声が聞こえてくる。これを聞くと、ああイスラムの国に来たのだなあと思う。

嵐のあとの涼しい風、合歓(ネム)の大木、ポラーシュ(火焔樹?)の大木、マンゴーの花... 異国での美しい夕べのひととき。

夜、この家でホームパーティ。18人ぐらいの人が来た。ビジネスマンや医者など、典型的な上層社会の面々。日本に5年もいたという夫婦から、薔薇とジャスミンの花束をもらった。

スリランカの大統領が暗殺された。


1993年5月2日

ここでは、みんなだいたい夜の10時頃に晩ご飯を食べ始める。私はまだこの遅い夕食に慣れなくて、6時か7時頃にはもうお腹がすいてきて困ってしまう。

 あとでよく考えると、この時期ちょうどラマダン(断食月)で、太陽が出ている間は飲食ができない時期だったような気もする。ラマダンのときは、夜遅くから、こうやって誰かの家に集まって夜通し飲み食いし、次の日の断食に備えるという話だった。Aさんはあまり何も説明してくれない人だったので、他の人から聞いた話から想像するに、きっとこのときはラマダンだったのだ。


1993年5月3日

10歳ぐらいの男の子が、Aさんの使用人として住み込みで働いている。買い物から料理、掃除・洗濯に至るまでほとんど1人でやっている。彼のお母さんは村にいて、お父さんはダッカのどこか他の家で、やはり使用人として働いているのだそうだ。

ダッカの上・中流階級の家ではどこでも、少なくとも1人か2人の使用人を雇っているらしい。こんな小さな子を雇っている家もけっこうある。もちろん、この子たちは仕事で忙しく、学校へは行かない。

ここの使用人の男の子、アブルは仕事をしながら歌を歌う。聞いていると、なかなか上手い。Aさんにそのことを言うと、アブルが歌うところなど聞いたことがないと言う。そうか、雇い主の前では歌わないんだ。歌は、ひとりだけの楽しみなんだな。


1993年5月8日

いま私は、ここの上層社会の内部から外を見ているように思う。上層社会!日本ではまったく縁のない社会。こちらでは本当に上・下が分かれている。今日のお昼、工場を見せてもらったときに会った、あのお医者さん、大きな家をダッカに6つも持っているらしい。おまけにあの大きな工場。ケタちがいの世界。日本人は、この社会では、誰であろうと自動的に「上」のカテゴリーに入れられてしまうようだけど、あんまり気持ちのいいものではない。第一、私は慣れてない。

ベンガル語には、3種類の命令形がある。最も丁寧な言い方は目上の人に対して、その次のは家族や友人に対して、一番丁寧でない言い方は小さな子どもや使用人に対して、という具合に。召使い文化(?)のない日本から来た私にとっては、この3番目の言い方を使うのに抵抗を感じる。アブルにものを頼むときに。

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