Bengal Report

1993年から1994年にかけて、バングラデシュとインド(西ベンガル州)に滞在した。いちおうベンガル語の学習という名目の「留学」だったが、本当の目的は、これら2つの国にまたがるベンガル地方の文化や自然を身体で感じることだった。とりわけこの地方の人々の信仰に興味を抱いていた。これはそのときの滞在記。

July 28, 2007

シャンティニケタンにて(10)

1993年12月23日

ポウシュ・メラという大きなお祭りがシャンティニケタンで開かれている。今日から4日間。色んな見せ物、衣類や食べ物のお店、遠くの州の特産物、即席のサーカスや遊園地など。

その一角に、バウル(ベンガルの吟遊詩人。物乞いをし、独特の宗教歌を歌いながら旅して回る人たちのこと)のグループが集まるテントを発見。ステージで歌うために、みんなここに集まってきているのだ。彼らの宿泊するテントの中は、独特の匂いと煙でむせかえるようだった。シャシャンクが、「ここは、ハシーシ(大麻)の強烈な匂いがする」と言った。

彼らの信仰は、麻薬の助けがないと実現できないのだろうか。それとも、彼らは堕落してしまったのだろうか。日本で彼らのことを聞いたとき、なんて素晴らしい人たちだろうと思った。タゴールも、彼らの作った歌や詩を心から賛美し、高く評価している。

なぜこんなに気になったのかというと、そのバウルの集団の中に、日本人女性がひとり混じっていたからだ。私の知っている人。インドに来る前、日本で会ったことがある。芯の強そうな、しっかりとした考えのありそうな女性だった。その彼女がいま、私の目の前で、バウルたちと一緒にガンジャを吸いながら、トランス状態に陥り、異常な目つきをしている。なんだか、怖くなってしまった。

いま、私には、彼ら(バウルたち)は、単なる詐欺師かなにかに見える。ベナレスあたりで、エキゾチックさを売り物に外国人漁りをしている、あのヨガの行者たちと同じじゃないかという気がする。

まあ、麻薬=堕落などと、あまり決めつけてしまうのは良くないけど。


1993年12月25日

メラで、カシミール人からショールを2枚買った。カシミールの人は、ベンガルの人たちとは全然ちがう。人種が違うという感じ。色白で、目が青く、背が高い。彼らはパキスタンの言葉、ウルドゥー語を話す。

シャンティニケタンにて(9)

上は、向こうで仲良くなった犬。とても勇敢で、愛らしい犬だった。インドの犬はみんなスリム。

下は、サンタル族の村の家。藁屋根、泥造り。壁や床には、牛糞を水でのばしたものを塗る。虫除けになるそうだ。室内はびっくりするほど清潔。
1993年11月29日

マッディヤプラデーシュ州、デリー、ラジャスタン州、ウッタルプラデーシュ州で今、いっせいに選挙が行われている。ヒンドゥー至上主義を唱えるBJP(極右政党)は、ほとんどの州で負けているが、もしBJPが勝てば、インドはとんでもない国になるだろう、とシャシャンクは言っている。

1993年12月8日
サーシャというロシアからの留学生がいる。彼はかなりの全体主義者。ヒンドゥー教に改宗し、ヒンドゥー至上主義を唱えている。イスラム教徒を世界の悪の根源のように思い込んでいる。ロシアから来た彼が、なんでまたこんな風になってしまっているのだろう。サーシャは見目麗しい、金髪青眼の美少年。あまりに純粋そうで、かえって怖いような印象を与える青年だ。

ちなみに、いまロシアでは、新興宗教がさかんで、中には日本で有名なオウム真理教や、ヒンズー教関係のものもあるらしいから、ロシアに居たときから既に興味を持っていたのだろう。ロシアはいま病んでいるのかもしれない。

1993年12月20日

この社会にだんだん深く入っていくにつれて、ここの人々が色々な形で相互依存していることが分かってくる。これは、いわゆる「社会保障」や、「社会福祉」について考える際の重要なヒントになると思う。

インドには、とりわけ、貧しい人々には、公的な保障制度というものは全くといってもいいほど無いのだが、この民間レベルの相互扶助システムのおかげで、みんな何となく保障されているように見える。

July 15, 2007

シャンティニケタンにて(8)

1993年11月17日

今日スサント(茶店を営む地元の青年)が、シャシャンク(インド他州出身の私の同居人)にお金を借りに来た。店を改装するために3000ルピー要るのだそうだ。貸せば、十中八九そのお金は返ってこない。バングラデシュでの経験からも、私はそれを知っている。でも、シャシャンクはそんなことは気にせず、1000ルピー、そして店の改装に関するいくつかの助言をスサントに喜んで提供した。1000ルピーといえば、かなりの大金だ。


1993年11月20日

スサントは赤字を解消するために、店内を一新し、人が変わったように一生懸命働き始めた。シャシャンクは、まだ色々とアドバイスをしてあげているようだ。彼はスサントの本当の叔父か何かのように、親身になって考えてあげている。

この出来事は、シャシャンクの言った、「巻き込まれること」に関係あるのかもしれない。

July 07, 2007

シャンティニケタンにて(7)

1993年10月29日

シャンティニケタンの日本人たちは、インド人は馴々しすぎると思っている。そしてインド人たちは、日本人は真面目すぎで、閉鎖的だと思っている。私自身も、時々インド人とつき合うのが、事実、面倒に感じられることがある。たった1回会っただけで、彼らは私のことを「親友」だとか、「お姉さん」だとか、ひどい場合には「ガールフレンド」などと呼び始める。

でも、それと同時に、彼らは困ったときとても頼りになる。彼らは他人のために自分の時間やエネルギーを費やすことを全くいやがらない。彼らが忙しいときでも、なんとか力になってくれようとする。彼らは自分と他人をあまり分けない。

そういえば、以前、私は日本で出会ったタイ人の友達についても、同じことを感じた覚えがある。


1993年11月5日

シャンティニケタンには、無職の人がおおぜいいる。西ベンガル州の雇用状況は、かなりひどいようだ。それにもかかわらず、みんなそんなに焦ったり、不安がったりしているようには見えない。無職の人たちも、それなりに家族や社会の中で自分の場所を得て、けっこう快適に暮らしているように見える。

ある意味、この社会には人手に関して「余裕」があるとも言えると思う。たとえば、誰かを空港まで迎えに行ったり、観光のための案内をしてあげたり、誰かの引っ越しを手伝ったりなどといった雑務は、ここでは何の問題もなくなされるが、日本ではそうはいかない。誰もが常に何らかの仕事に従事しているため、こういった雑務はお金を払って、業者に頼んだりしなければならないのだ。つまり、人手に余裕がない。あるのはお金だけ。


1993年11月9日

あと何ヶ月かすれば、私はここを離れなければならないと思うと、今からもう悲しくなってしまう。時々、日本に帰ってから社会に適応できるかどうか心配にもなる。生活のペースがあまりにもゆっくりになってしまったから。ここでは、洗濯をして、買い物をして、食事の支度をするだけで、一日が終わってしまうのだ。そして、それだけのことに、なぜか十分な満足感を覚える。日本ではとてもそうはいかない、ということを私は知っている。


1993年11月12日

外からここへ来た人は、誰も国に帰りたがらない。留学というのは、ここで暮らすための単なる口実にすぎない。目に見える形では、誰も(私も含めて)何も生産的な活動はしていないのであるが、それでも何故かみんな幸せそうに見える。シャシャンクは、これは一種の逃避主義だと言う。全快したにもかかわらず、退院しようとしない患者のようなものだと。