Bengal Report

1993年から1994年にかけて、バングラデシュとインド(西ベンガル州)に滞在した。いちおうベンガル語の学習という名目の「留学」だったが、本当の目的は、これら2つの国にまたがるベンガル地方の文化や自然を身体で感じることだった。とりわけこの地方の人々の信仰に興味を抱いていた。これはそのときの滞在記。

January 28, 2007

ダッカにて(5)

1993年5月28日

金曜日。休日。朝のテレビ番組で面白いのをやっている。子どものお話コンテストみたいな番組で、小学生ぐらいの子どもがひとりひとり、短い話をそらで語り、その語り方が上手か下手かを審査員が判断して、得点をつけていくというもの。もちろん母国語のベンガル語で。ちょうど、日本の落語みたいな感じ。内容は分からないが、最後に何かオチがあるような話みたい。みんなびっくりするほど上手。感情込めて、淀むことなく話す。表情も素晴らしい。長い話を完璧に暗記している。

次は、少し趣向が変わって、タブラ(インド音楽に使われる打楽器)の伴奏つきで、ラップみたいな語りをやっている。これも、なかなか面白い。きっと詩か何かなのだろう。

こんな番組、日本にもあればいいのにと思う。ここバングラデシュでは、口頭の文化がしっかりと生きている。そういえば、この国で会った人たちは、普通のなんということのない人たちも、しゃべるのがものすごく上手だ。

そのあとは、コーランの暗唱のための教育番組。これも、私には新鮮で面白い。


1993年6月8日

自分の生活レベルを下げることなく、貧しい人々に手を差し伸べる、というのがここの良心的な金持ちたちの基本的な考え方のようだ。

今日会った、あるお金持ちの男性が言っていた。「私たちはある程度お金があるからこそ、貧しい人々のことを考えなければいけないんだ。そして、お金があるからこそ、貧しい人々の役に立てる。お金がなければ、何もしてあげられない。」

彼がほんの少し、あの贅沢な生活の水準を下げるか、貪欲にお金を集めるのを減らすかするだけで、たくさんの貧しい人々が、今よりもう少しましな暮らしを営めるようになるのではないかと思う。彼は絶対にそんな風には考えないだろうけど。

もしかすると、今の日本って、この金持ちの彼のような考え方の国なのかもしれない。


1993年6月12日

バングラデシュ人は、自分の国にまったくと言っていいほど誇りを持っていない、ということに気がついた。これこそが、この国の何よりの弱点なのではないだろうか。パキスタンから独立する際に、あれほど誇りにし、それを言わば「武器」にして戦った彼ら自身の言語であるベンガル語にしてさえも、インドの西ベンガル州で話されるベンガル語の方が美しいなどと信じている。バングラデシュのベンガル語は田舎くさいのだと。なんて悲しいこと!彼らには、自信を持てることが何ひとつないのだ。

January 21, 2007

ダッカにて(4)

1993年5月10日

停電がほぼ毎日のようにある。それも長時間。こんなのでは冷蔵庫も意味がない。 真っ暗な中、湿気を含んだ生ぬるい風が、花々のむせかえるように甘い香りを運んでくる。何もできないので、Aさんと色々しゃべる。

Aさんは、「いざとなれば人を殺すこともできる」ほど、意志が強い人なのだそうだ。友達からそう言われるらしい。一瞬ぎょっとした。でも、すぐに「ジハード」という言葉が頭に浮かんだ。「人も殺せるほど」というのは、もしかするとイスラム世界独特の肯定的意味をもった表現なのかもしれない。(他の世界では、それが自分をアピールする言葉にはなりえないだろう。) Aさんは自分はイスラム教徒ではないと言っているが、彼の父親は日に5回のお祈りを欠かさない人だそうだ。精神的な影響は受けているにちがいない。

※ あとで調べたら、「ジハード」には「聖戦」、つまり「神聖」という意味も、「戦い」という意味も含まれていないらしい。 「ジハード」の言葉をもって、イスラム教徒に対して「宗教のためには戦争も辞さない」などというイメージを持つのはきっと間違っているのだろう。Aさんのことも、誤解だったかもしれない、と今は思う。


1993年5月15日

ひどい風邪をひいてしまった。このとてつもなく高い湿度と、激しい気温の変化のせいだろう。日本では風邪なんてひいたことないのに。

ここでは服は決して乾かない。日本から持ってきた洋服は特に。したがって自然とこちらのものを着るようになる。こちらの服は薄い綿でできているので、乾きやすい。

ベッドも常に湿っている。ソファーも。 Aさん好みの重厚なアラビア風の布製家具は、バングラデシュの気候にはちょっと無理があるみたい...


1993年5月21日

Aさんの周りの女の人たちは、どうも容貌を気にしすぎる。髪の毛や肌の色、サリーやアクセサリー。髪の毛は多いほどいいし、肌の色は白いほどいい。サリーはたくさん持っているに越したことはないし、アクセサリーはもちろん本物の金や宝石でないとだめ。そういうものに対する貪欲さに、圧倒される。 彼女たちの「外見の美」に対する憧れは、怖いほどに強い。それによってのみ、女性が評価される社会なのだろうか。ん?日本もそうか?

January 20, 2007

ダッカにて(3)











写真は、ダッカで泊めてもらっていたAさんのマンションの居間。
ベタギ村の標準的な家との、あまりの落差に驚く。

田舎には電気も水道もガスもない。テレビなんてもちろんない。家はたいて平屋藁葺きで、室内は土間。


それに比べて、Aさん宅には、冷蔵庫、テレビ、ステレオセット、各部屋にシャワー室。いつもピカピカに磨かれた石の床には豪華なペルシャ絨毯。そして、それを掃除するための電気掃除機もあった。


1993年5月1日

このマンションの屋上からダッカの街を見下ろしている。今日は金曜日なので、休日。でも、街には活気があふれている。モスクから夕刻のコーランの声が聞こえてくる。これを聞くと、ああイスラムの国に来たのだなあと思う。

嵐のあとの涼しい風、合歓(ネム)の大木、ポラーシュ(火焔樹?)の大木、マンゴーの花... 異国での美しい夕べのひととき。

夜、この家でホームパーティ。18人ぐらいの人が来た。ビジネスマンや医者など、典型的な上層社会の面々。日本に5年もいたという夫婦から、薔薇とジャスミンの花束をもらった。

スリランカの大統領が暗殺された。


1993年5月2日

ここでは、みんなだいたい夜の10時頃に晩ご飯を食べ始める。私はまだこの遅い夕食に慣れなくて、6時か7時頃にはもうお腹がすいてきて困ってしまう。

 あとでよく考えると、この時期ちょうどラマダン(断食月)で、太陽が出ている間は飲食ができない時期だったような気もする。ラマダンのときは、夜遅くから、こうやって誰かの家に集まって夜通し飲み食いし、次の日の断食に備えるという話だった。Aさんはあまり何も説明してくれない人だったので、他の人から聞いた話から想像するに、きっとこのときはラマダンだったのだ。


1993年5月3日

10歳ぐらいの男の子が、Aさんの使用人として住み込みで働いている。買い物から料理、掃除・洗濯に至るまでほとんど1人でやっている。彼のお母さんは村にいて、お父さんはダッカのどこか他の家で、やはり使用人として働いているのだそうだ。

ダッカの上・中流階級の家ではどこでも、少なくとも1人か2人の使用人を雇っているらしい。こんな小さな子を雇っている家もけっこうある。もちろん、この子たちは仕事で忙しく、学校へは行かない。

ここの使用人の男の子、アブルは仕事をしながら歌を歌う。聞いていると、なかなか上手い。Aさんにそのことを言うと、アブルが歌うところなど聞いたことがないと言う。そうか、雇い主の前では歌わないんだ。歌は、ひとりだけの楽しみなんだな。


1993年5月8日

いま私は、ここの上層社会の内部から外を見ているように思う。上層社会!日本ではまったく縁のない社会。こちらでは本当に上・下が分かれている。今日のお昼、工場を見せてもらったときに会った、あのお医者さん、大きな家をダッカに6つも持っているらしい。おまけにあの大きな工場。ケタちがいの世界。日本人は、この社会では、誰であろうと自動的に「上」のカテゴリーに入れられてしまうようだけど、あんまり気持ちのいいものではない。第一、私は慣れてない。

ベンガル語には、3種類の命令形がある。最も丁寧な言い方は目上の人に対して、その次のは家族や友人に対して、一番丁寧でない言い方は小さな子どもや使用人に対して、という具合に。召使い文化(?)のない日本から来た私にとっては、この3番目の言い方を使うのに抵抗を感じる。アブルにものを頼むときに。

January 06, 2007

お米つながり

これを書いていて思い出したことがある。チッタゴンのベタギ村での出来事だ。

泊めてもらった孤児院で迎えた初めての朝、朝食を用意してもらったら、なんとコーンフレークと薄切りパン。コーンフレークは、いかにも古そうな感じで、パンも、少々干からびている。いかにも不味そう。食べたら本当に不味かった。こんな西洋のまねごとみたいな朝ご飯、しかも恐ろしく不味いものを、地元の人たちもみんな食べているのだろうかと思い、聞いてみると、ベンガルの標準的な朝ご飯は、「水ご飯」(前の晩、鍋にくっついた残り飯に水を注いでおいたもの)だという。お粥のようなものだ。それにスパイスの効いた豆スープなどを添えて食べる。豆スープは日本で言うとみそ汁のようなもの。その方がぜったい美味しそうだ!

そもそも、コーンフレークなんてこの辺のお店に売ってない。なんで私はコーンフレークとパンなのかと聞いてみると、外国人はみんなこういうものを食べると思い、わざわざチッタゴンの街まで買いに行かせて用意しておいたのだそうだ。彼らにとっては、外国人というのは一種類しかない。

とんだ誤解だ!私は日本人で、日本の主食は、あなた達と同じ、お米なのだと説明すると、みんなの顔がぱあーっと輝いた。「えっ!お米を食べるの?」「な~んだ、お米でいいのか!」と、みんな嬉しそう。私はうんうんと頷いて、次の朝からは不味いコーンフレークではなく、普通のご飯にしてもらった。それと、もちろん豆スープ。

インド亜大陸は米を主食にする地域と、小麦を主食にする地域に別れる。大きく分けると、東・南では、もっぱら米。北・西(中央も含む)では、もっぱら小麦。(もっとも、地域によっては両方食べるところもあるが。) ということで、ベンガル地方(東に位置する)は、もっぱら米を主食とする。でも、ベタギの人たちは、それをベタギ特有の極めてローカルなもので、「外国人」の口には合わないだろう、と思ったのだ。確かに、かつての宗主国のイギリス人も、「西パキスタン(現在のパキスタン)」人も、パン食だ。東パキスタン時代に、自分たちの米食の特異性が強調されたのかもしれない。


米を主食とするということは、食べ物に関してだけでなく、多くの共通点を生み出す。まず第一に村の景観。田植えの時期に水田が広がることだ。水を張った田んぼがあるということは、そこに似たような生き物が生息するだろう。稲刈り時の匂いもきっと同じ。田んぼは、村全体で協力しないとできない作業なので、共同体のあり方もある程度似ているに違いない。 そういう意味では、ベンガル人は、かつて無理やり「同国人」とされたパキスタン人よりも、日本人により近いと言えるかもしれない。

「お米を食べる」という、ただそれだけのことで、人種や言語や地域の違いを超えて、何か存在の根源的なところで一気につながった気がしたのは、なかなか感動的だった。

January 04, 2007

ダッカにて(2)

1993年4月29日

ダッカでは、日本でバングラデシュ関係のNGOを運営する J夫妻のお友達、Aさんのマンションに滞在している。Aさんは、40過ぎの独身の男性で、ダッカの中心地の8階建てのマンションの最上階に、手伝いの男の子2人と一緒に住んでいる。この社会で、この人はおそらく「上層階級」に位置すると思われる。物価がだいたい日本の10分の1ほどのこの国で、家賃が日本円にして7万円ぐらい(ひと家族の2~3ヶ月分の生活費)のマンションに住み、高そうなオーダーメイドの家具をしつらえて、洗濯は全て近くの一流ホテルのランドリーサービスに出している。毎日、おそろしく香りの良い生の花をたっぷり飾って暮らし、屋上でバラも育てている...


1993年4月30日

Aさんは、いつも自動車で移動する。もちろん運転手つき。彼はあまり道を歩かない。そして、私にも歩かせまいとする。歩いたり、サイクル・リキシャ(自転車が前についた人力車)に乗ったりする方が私は面白いし、第一、ダッカは車に乗って移動するほど大きい街じゃないのに。