Bengal Report

1993年から1994年にかけて、バングラデシュとインド(西ベンガル州)に滞在した。いちおうベンガル語の学習という名目の「留学」だったが、本当の目的は、これら2つの国にまたがるベンガル地方の文化や自然を身体で感じることだった。とりわけこの地方の人々の信仰に興味を抱いていた。これはそのときの滞在記。

August 05, 2007

シャンティニケタンにて(11)

1994年2月24日

昨日、スサントがひどく怒っていたので、どうしたのか聞いてみたところ、「今日、日本人の女の子が重そうな荷物を持ってたから、それを持ってあげたら、その子はお礼にといって、タバコを一箱、僕によこしたんだ。許せない。」

スサントは、なにか侮辱されたように感じたようだ。インド人、特に英語をあまり話さない、さほど西洋化されていない階級のインド人たちは、人に何かしてもらったとき、滅多にお礼を言わない。お礼を言ったり、お返しをしたりすると、彼らの好意を突き返されているように感じるらしいのだ。特に、仲の良い間柄では、絶対といっていいほど「ありがとう」を言わない。

そういえば、私も、家族には「ありがとう」を言わないな...


1994年3月27日

今日はホーリー(春祭り)。みんな黄色いサリーを着て、朝から色粉のかけ合い。誰かれかまわず、ピンクや赤のどぎつい色粉を頭からふりかける。インドの他の地域では、色水をかけ合うところもあるらしい。服はもう一瞬で台無し。東南アジアの「水かけ祭り」に相当するのかな。とにかく春の到来を祝う盛大なお祭り。


1994年4月3日

最近、シャンティニケタンの道という道に、何ともいえない甘い花の香りが漂っている。特に夜。リキシャで家に帰る途中、気を失いそうなほどの強烈な花の香り。一種類ではない様子。色んな種類の。

春だ。日本の春よりも、はるかに濃厚で、色っぽい。

July 28, 2007

シャンティニケタンにて(10)

1993年12月23日

ポウシュ・メラという大きなお祭りがシャンティニケタンで開かれている。今日から4日間。色んな見せ物、衣類や食べ物のお店、遠くの州の特産物、即席のサーカスや遊園地など。

その一角に、バウル(ベンガルの吟遊詩人。物乞いをし、独特の宗教歌を歌いながら旅して回る人たちのこと)のグループが集まるテントを発見。ステージで歌うために、みんなここに集まってきているのだ。彼らの宿泊するテントの中は、独特の匂いと煙でむせかえるようだった。シャシャンクが、「ここは、ハシーシ(大麻)の強烈な匂いがする」と言った。

彼らの信仰は、麻薬の助けがないと実現できないのだろうか。それとも、彼らは堕落してしまったのだろうか。日本で彼らのことを聞いたとき、なんて素晴らしい人たちだろうと思った。タゴールも、彼らの作った歌や詩を心から賛美し、高く評価している。

なぜこんなに気になったのかというと、そのバウルの集団の中に、日本人女性がひとり混じっていたからだ。私の知っている人。インドに来る前、日本で会ったことがある。芯の強そうな、しっかりとした考えのありそうな女性だった。その彼女がいま、私の目の前で、バウルたちと一緒にガンジャを吸いながら、トランス状態に陥り、異常な目つきをしている。なんだか、怖くなってしまった。

いま、私には、彼ら(バウルたち)は、単なる詐欺師かなにかに見える。ベナレスあたりで、エキゾチックさを売り物に外国人漁りをしている、あのヨガの行者たちと同じじゃないかという気がする。

まあ、麻薬=堕落などと、あまり決めつけてしまうのは良くないけど。


1993年12月25日

メラで、カシミール人からショールを2枚買った。カシミールの人は、ベンガルの人たちとは全然ちがう。人種が違うという感じ。色白で、目が青く、背が高い。彼らはパキスタンの言葉、ウルドゥー語を話す。

シャンティニケタンにて(9)

上は、向こうで仲良くなった犬。とても勇敢で、愛らしい犬だった。インドの犬はみんなスリム。

下は、サンタル族の村の家。藁屋根、泥造り。壁や床には、牛糞を水でのばしたものを塗る。虫除けになるそうだ。室内はびっくりするほど清潔。
1993年11月29日

マッディヤプラデーシュ州、デリー、ラジャスタン州、ウッタルプラデーシュ州で今、いっせいに選挙が行われている。ヒンドゥー至上主義を唱えるBJP(極右政党)は、ほとんどの州で負けているが、もしBJPが勝てば、インドはとんでもない国になるだろう、とシャシャンクは言っている。

1993年12月8日
サーシャというロシアからの留学生がいる。彼はかなりの全体主義者。ヒンドゥー教に改宗し、ヒンドゥー至上主義を唱えている。イスラム教徒を世界の悪の根源のように思い込んでいる。ロシアから来た彼が、なんでまたこんな風になってしまっているのだろう。サーシャは見目麗しい、金髪青眼の美少年。あまりに純粋そうで、かえって怖いような印象を与える青年だ。

ちなみに、いまロシアでは、新興宗教がさかんで、中には日本で有名なオウム真理教や、ヒンズー教関係のものもあるらしいから、ロシアに居たときから既に興味を持っていたのだろう。ロシアはいま病んでいるのかもしれない。

1993年12月20日

この社会にだんだん深く入っていくにつれて、ここの人々が色々な形で相互依存していることが分かってくる。これは、いわゆる「社会保障」や、「社会福祉」について考える際の重要なヒントになると思う。

インドには、とりわけ、貧しい人々には、公的な保障制度というものは全くといってもいいほど無いのだが、この民間レベルの相互扶助システムのおかげで、みんな何となく保障されているように見える。

July 15, 2007

シャンティニケタンにて(8)

1993年11月17日

今日スサント(茶店を営む地元の青年)が、シャシャンク(インド他州出身の私の同居人)にお金を借りに来た。店を改装するために3000ルピー要るのだそうだ。貸せば、十中八九そのお金は返ってこない。バングラデシュでの経験からも、私はそれを知っている。でも、シャシャンクはそんなことは気にせず、1000ルピー、そして店の改装に関するいくつかの助言をスサントに喜んで提供した。1000ルピーといえば、かなりの大金だ。


1993年11月20日

スサントは赤字を解消するために、店内を一新し、人が変わったように一生懸命働き始めた。シャシャンクは、まだ色々とアドバイスをしてあげているようだ。彼はスサントの本当の叔父か何かのように、親身になって考えてあげている。

この出来事は、シャシャンクの言った、「巻き込まれること」に関係あるのかもしれない。

July 07, 2007

シャンティニケタンにて(7)

1993年10月29日

シャンティニケタンの日本人たちは、インド人は馴々しすぎると思っている。そしてインド人たちは、日本人は真面目すぎで、閉鎖的だと思っている。私自身も、時々インド人とつき合うのが、事実、面倒に感じられることがある。たった1回会っただけで、彼らは私のことを「親友」だとか、「お姉さん」だとか、ひどい場合には「ガールフレンド」などと呼び始める。

でも、それと同時に、彼らは困ったときとても頼りになる。彼らは他人のために自分の時間やエネルギーを費やすことを全くいやがらない。彼らが忙しいときでも、なんとか力になってくれようとする。彼らは自分と他人をあまり分けない。

そういえば、以前、私は日本で出会ったタイ人の友達についても、同じことを感じた覚えがある。


1993年11月5日

シャンティニケタンには、無職の人がおおぜいいる。西ベンガル州の雇用状況は、かなりひどいようだ。それにもかかわらず、みんなそんなに焦ったり、不安がったりしているようには見えない。無職の人たちも、それなりに家族や社会の中で自分の場所を得て、けっこう快適に暮らしているように見える。

ある意味、この社会には人手に関して「余裕」があるとも言えると思う。たとえば、誰かを空港まで迎えに行ったり、観光のための案内をしてあげたり、誰かの引っ越しを手伝ったりなどといった雑務は、ここでは何の問題もなくなされるが、日本ではそうはいかない。誰もが常に何らかの仕事に従事しているため、こういった雑務はお金を払って、業者に頼んだりしなければならないのだ。つまり、人手に余裕がない。あるのはお金だけ。


1993年11月9日

あと何ヶ月かすれば、私はここを離れなければならないと思うと、今からもう悲しくなってしまう。時々、日本に帰ってから社会に適応できるかどうか心配にもなる。生活のペースがあまりにもゆっくりになってしまったから。ここでは、洗濯をして、買い物をして、食事の支度をするだけで、一日が終わってしまうのだ。そして、それだけのことに、なぜか十分な満足感を覚える。日本ではとてもそうはいかない、ということを私は知っている。


1993年11月12日

外からここへ来た人は、誰も国に帰りたがらない。留学というのは、ここで暮らすための単なる口実にすぎない。目に見える形では、誰も(私も含めて)何も生産的な活動はしていないのであるが、それでも何故かみんな幸せそうに見える。シャシャンクは、これは一種の逃避主義だと言う。全快したにもかかわらず、退院しようとしない患者のようなものだと。

June 24, 2007

ボーパールにて

1993年10月21日

シャシャンクに伴われて、いま私はマッディヤ・プラデーシュ州(インド中央部)の州都、ボーパールという所に来ている。インドのど真ん中の州都なだけあって、ここにはインド各地から人が集まっている。パンジャーブ人、シンディ人、グジャラート人、マハラシュトラ人、ベンガル人など。イスラム教徒も多い。みんな、それぞれ彼らの故郷の文化を保って生活しているのが面白い。使用する家庭での言語はもちろん、家庭料理、着るもの、サリーの着方、既婚女性の印、容貌、気質、夫婦関係まですべて、彼らの出身地や宗教やカーストによって異なる。くらくらするほど多様だ。


1993年10月25日

インドでは、だいたい誰でも最低3つの言葉を話す。彼らの出身州の言葉(州は言語の違いによって分けられている)すなわち母語と、ヒンディー語、そして英語である。いわゆる多言語国家。ここでは他のグループの文化を知らなければ暮らせない。知らなければ一緒に食事もできない。そういう意味では、インド人は国内にいても、一種の国際感覚を身につけている、あるいは異文化に対する寛容性があると言えるかもしれない。国内で文化の多様性に触れる機会が少ない日本人は、意識的に努力しなければ、このような感覚はとうてい身につけることができないだろうと思う。


1993年10月27日

「私はインドでいろいろな経験を得たいと思ってシャンティニケタンへ来た」と言ったら、シャシャンクが「もし本当に経験を得たいのであれば、まず何らかの人間関係に巻き込まれてみなければならない」と言った。 「巻き込まれる」....どういう意味だろう。

明日、この小さくて、乾燥して、暑くて、何となく気だるい都市、ボーパールを発つ。

June 16, 2007

シャンティニケタンにて(6)

1993年9月9日

屋台でエッグロールと焼きそばを売っているトゥルという青年と友達になった。彼はビハール州からの移民2世。だから、家の中ではヒンディー語ではなし、外ではベンガル語ではなす。学校へは行けなかったみたい。でも、いちおう読み書きは出来るらしい。彼は詩を作る。ヒンディー語の詩。でもベンガル文字で書く。

このあいだ彼は、下働きの小さな男の子に、近くの店で砂糖を買ってくるように言った。雨が降っていたので、その子は嫌がった。すると、トゥルは、雨の中に出ていくことの素晴らしさを表現したタゴールの詩を暗唱して、その子に聞かせた。そして、その子は砂糖を買いに出て行った。なんという文化的な説得のしかた!

このトゥルという青年、裸の後ろ姿が惚れぼれするほど美しい。日々の肉体労働の成果だろう。


1993年9月12日

今日、マキシム(あのペルーからやってきた音楽家のおじいさん)をボルプールの町で見かけた。村の子ども達と両方の手をつないで一緒に歩いていた。ほかにも何人かの子ども達が一緒だった。みんな何だか嬉しそうな顔をして。そして、その少しあと、彼らが近くの池で泳いでいるのを見た。ここはお年寄りにとって、なかなかいい場所だと思う。子ども達がとても自然な形で年寄りを慕い、一緒に遊ぼうとする。


1993年9月17日

最近知り合った、シャシャンクというジャーナリストのおじさんに、ある教授宅でのホームコンサートに連れて行ってもらった。その教授の姪、そのほか4人の子どもたちが、インド古典音楽と、タゴールソングを歌った。みんな高校生。みんな真剣に聴き、真剣に批評する。ベンガルでは、「歌う」という行為がものすごく重要な意味を持っているようだ。


1993年9月20日

ここには変わった人たちが多い。国籍もいろいろ。今日キャサリンというドイツ人の女の子としゃべった。彼女は、「私は自分が何をしたくないかは分かるんだけど、何をしたいのかという点になると混乱してしまう」と言っていた。だから、今はとりあえず美術の勉強という口実でここに滞在しているらしい。ここにいる外国人たちは、私も含めて、みんなそんな感じだと思う。

June 04, 2007

シャンティニケタンにて(5)

1993年8月29日

今、スサントの店で物乞いのおばあちゃんとお茶を飲んでいる。わけの分からない言葉で私に話しかけてくる。ベンガル語ではない。はっきり分からないが、どうやらご飯をおごってくれとせがんでいる様子。

このおばあちゃん、茶店に来た学生から今、ケーキをもらって食べている。なんという嬉しそうな顔!なんとなく微笑ましい光景。歯がないから、笑うとなんともいえない、くしゃくしゃの可愛い笑顔を見せてくれる。

スサントが、彼女はサンタル人(ベンガル地方土着の少数民族)だと言っていた。


1993年9月2日

8月31日はマホメットの誕生日で学校は休みだった。

May 28, 2007

リキシャ引き


サルジュというリキシャ引きのじいさん。80歳をこえているらしいが現役。でも、上り坂(シャンティニケタンにはあまりないが)では、降りてあげないといけない。


シャンティニケタンにて(4)

1993年8月23日

昨日の晩、あるバウル一家の家を訪ねた。わらぶき屋根、泥作りの小さな庵風の家だった。彼らと、村人数人が、集落内にある、彼らいわく「お寺」(やはり粗末な小屋)に集まっていた。子ども達や犬もいた。みんな一緒にランプの光の中で歌ったり、楽器を鳴らしたりしていた。毎晩こうして歌うのだそうだ。こういう環境で育つと、きっとどんな子でも歌えるようになるだろう。3歳ぐらいの子どもが、音楽に合わせて上手に踊っていた。私には、リズムが難しすぎて、拍子を取るのもやっとなのに。

そして今朝、いつものようにスサントのお店で朝食をとってゆっくりしていると、バウルの親子がやってきて、その息子の方(わずか11歳!)が、ドータラ(2弦のギターのような楽器)を弾きながら歌った。すでにバウルソングのいい味を出している。

バウル... 面白い人たち。

(参考までに: http://www.neighborly.co.jp/explain.html


1993年8月25日

スサントの店の前に、いつもひとりの年老いた力車引きが止まっている。このじいさん、もう80歳をこえているのだそう。毎朝、花に糸を通して花輪を作り、せっせと自分の力車に飾っている。ボロボロのサイクルリキシャ(前に自転車がついた人力車)なので、ビニール袋をあげると喜ぶ。それでリキシャを補修するのだそうだ。

ようやく彼の名前を聞き出した。サルジュ。ビハール州から来たそうだ。インドで一番貧しい州。こうして近隣の州に出稼ぎに出て、そのまま帰らない人が多い。彼にも家族があったらしいが、病気で死んでしまったそうだ。いま独り暮らし。いつもパーン(噛みタバコ)ばかり食べている。たまに近くの茶店でご飯とカレーを恵んでもらっている。

彼はなかなかひょうきんだ。この間、スサントが道の反対側から、「じーさん、今日はまたええルンギ(腰布)はいとるなあ!」と叫ぶと、このサルジュじいさん、手を鉄砲の形にして、スサントをバーンと撃つ真似をした。素晴らしい!!<>

May 18, 2007

シャンティニケタンの風景

道ばたによくるタバコやさん。これは、私がときどきお世話になった「アショク食堂」脇に店を構える、ラームじいさん。彼の前にある、まな板のような台は、パーン(噛みタバコ)を作るための台。台の上で白い布を被せてあるのは、「キンマの葉」。とても面白い味のする肉厚の葉っぱ。これにタバコの粉、クローブやカルダモンなどのスパイス、ライム(石灰)の粉などを包んで売る。食べ過ぎた後など、これが欠かせないのそうだ。

こういうタバコ屋さんには、何でも置いてある。普通のタバコや葉巻はもちろん、石鹸、ヘアオイルなどの日用品から、ちょっとしたスナック菓子やキャンディ、さらにコンドームや避妊薬(!)まで。まさに何でも屋さんだ。世界一小さなコンビニかもしれない。夜になると、店の前面にふたをして、ひとつの小さな箱のように収まってしまう。ほんとに便利。

※写真をクリックすると、たぶん大きくなるので、色んなものが売ってあるのが分かるはず

よく留学生の溜まり場になっていた茶店。スサントという青年がここの店主。どこの茶店も店主はみな若い。こういう掘っ立て小屋を勝手に(?)建てて、周りにベンチをいくつか並べ、お茶など売り始めれば、もうそれは立派なレストランなのだ。店の前に止めてある赤い自転車が私の愛車。


近くのサンタル族の村で撮ったお気に入りの一枚。ヤギ、豚、犬の子どもたち。特にこのカメラ目線の子犬のつぶらな瞳が最高。

シャンティニケンタンにて(3)

1993年8月16日

こちらのベンガル人はバングラデシュのベンガル人を見下す傾向にあるように思う。私がバングラデシュに行っていたことを言うと、たいていの人が、「どうしてバングラデシュ(なんか)に?」と聞く。これは、私が日本にいたとき、インドに留学するというと、必ず、「どうしてインド?」と聞かれたのと全く同じトーンだ。


1993年8月19日

朝5時半。たくさんの中年夫婦が朝の散歩をしている。ヴィシュヴァ・バーラティでは、幼稚園から高校までは、朝の6時から始まり、昼ご飯前には終わる。暑い国ならではの、いいシステムだと思う。

ここでは動物たちが本当に可愛らしい。なんでもいる。犬、猫はもちろんのこと、ヤギ、牛、水牛、豚、羊、猿、リス、ロバ、ニワトリ、小鳥、トカゲ、ヤモリ、カメレオン!、そして私の大嫌いなヘビも。これらが、自由に、悠々と自分たちの時間を過ごしている。人間に会うよりももっと頻繁に、これらの生き物に毎日出会う。ここでは、人間も、これら多くの動物のひと種類にすぎない。


1993年8月22日

マキシムという名前の老人が私たちのベンガル語のクラスに加わった。おそらく彼は80歳近い。スイスで生まれ、チェリストになり、南米のペルーに30年以上いたらしい。スペイン語なまりの面白い英語で、子どものようにしゃべる。彼はここへ、タゴールソングを勉強しに、ひとりで来たのだそうだ。

May 17, 2007

シャンティニケタンにて(2)

1993年8月6日

洗濯をすべて手でやるというのは、なかなかの重労働。この社会にはまだ洗濯機というものは入ってきていない。たいていの家では使用人がやるみたい。


1993年8月7日

大家さんの奥さんにお昼ご飯をご馳走になった。ベンガルの家庭料理。豆のスープ、野菜のカレー、カボチャの花の天ぷら、ポトル(キュウリに似た野菜)のケシの実和えなど。美味しかった!(写真中央にあるのがポトル。ターメリックで炒めるとものすごく美味!)


1993年

ヒンズー教の神々のひとり、クリシュナの誕生日でお休み。ヒンズー教には神さまがいっぱいいて、いちいち休みになるから、ほんとに休みだらけ。


1993年8月11日

夕方6時頃から毎日停電。しかも長時間。蝋燭の光で料理し、ベランダに出て月明かりでそれを食べ、なるべく早く寝るという生活。

休日の多さと停電の頻繁さ、この2点はバングラデシュと西ベンガル州に間違いなく共通している。


1993年8月13日

ここ数日ずっと激しい雨が降り続いている。昨夜など、あまりにも激しい雨と雷の音とで眠れないほどだった。次の朝、起きて外を見てみると、家の前の畑が一晩で大きな池に変わってしまっていた。さっそく、朝早くから子どもらがそこで泳いでいた!

自然の威力というものの存在が、ここではとても大きく感じられる。

May 13, 2007

シャンティニケタンにて(1)


写真(上)は、私が下宿することになった部屋のベランダからの風景。

もうひとつ(下)は、学園内にある、タゴールが住居にしていた建物


1993年7月21日

とうとうシャンティニケタン。昨日ここへ来た。ダッカのAさんと、日本に、無事着いたことを知らせようと、郵便局から電話してみたけど、つながらなかった。連絡待ってるだろうに。

このあたりに電話をかけられる公共の場所は、たった2カ所だけ。しかも、その2つも、たいていは回線がこわれているそうだ。なんという場所! 手紙が唯一の連絡法のようだ。


1993年7月22日

自転車を買った。ここでは自転車は必需品。部屋も見つかった。或る大学教授の家に、バス・トイレつきの部屋を借りて住むことになった。これから自炊。


1993年7月23日

西ベンガル州全体がストライキ。色々と買いそろえなければならないものがあるのに、店という店はすべて閉まっている。困った。


1993年7月27日

明日から牛乳をとることにした。牛乳屋のお兄ちゃんは毎朝、アルミ製の牛乳缶をさげて自転車でやってくる。その大きな牛乳缶のひとつから直接、私の家の鍋に牛乳を入れてくれる。1リットル7ルピー半だから26円ぐらい。もちろん、加熱処理無しのしぼりたて。冷蔵庫がないので、1日最低2回は沸騰させなくてはならない。だから、はじめから鍋に入れてもらう。これ、大家さんの奥さんに教わったこと。

米1キロ12ルピー、紅茶100グラム9ルピー、シングルサイズの敷布団210ルピー。


1993年7月28日

甘すぎて食べられなかったあのベンガルのミルク菓子、最近だんだん好きになってきた。ションデーシュ、ロッショゴラ、チャムチャムなど。きっともうすぐ中毒になる。


1993年7月31日

タゴールが創始したこの学校、ヴィシュヴァ・バーラティでは、いま15人以上もの日本人が勉強している。分野は色々で、音楽や舞踊、哲学や言語、美術など。文化人類学のフィールドワークをしている夫婦もいる。

February 22, 2007

カルカッタ(現コルカタ)

1993年7月18日

カルカッタ。「サダル・ストリート」という安宿街には、ヒッピー風の欧米人がたくさんいる。彼らが、その辺の路上生活者たちと、腕や肩を組んで仲良く歩いている姿をよく見かける。なんだろう、そういうのがいま彼らの間で流行っているんだろうか。私の路上生活者たちに対する態度は、とくに避けようとも思わないし、仲良くなろうとも思わない、といった風。

いま私は、カメラマンのクマールさん(ほんとにクマみたいな人)のアパートに泊めてもらっている。小さな部屋。ものが散乱して、思いきり散らかっている。質素な生活。でもAさんの豪華マンションより、はるかに落ち着く。ただ、問題はこの大量の赤アリ(噛まれると、ものすごく痛い)。それと蚊(巨大)。昨日、ここに着いたときは暗くて分からなかったけど、夜中ずっと何か体がチクチクするので、朝起きてからベッドの布団をめくってみたら、敷布団の下にいるいる!うじゃうじゃと赤アリが!! 小さな肉食の蟻。手強そう... すでにいっぱい噛まれてしまった。


1993年7月19日

1人のメイドと、彼女の2人の息子がここで雇われている。住み込みではない。彼女たちの家は、近くのスラムにあるらしい。ダッカのAさんちの男の子とちがって、ここの使用人たちは明るい。よくしゃべり、よく笑う。たぶん、クマールさんが彼らに優しいからだろう。下の方の息子は学校にも行かせてもらっており、上の方の息子はクマールさんの仕事を手伝わせてもらっている。主人と使用人の関係が良好な家は、とても居心地が良い。

February 21, 2007

ダッカにて(6)

1993年6月30日

今朝、ここ(Aさんのマンション)にナップサックを背負った少年がやってきた。どうやらこの少年、家々を個別にまわって、お酒を売る商売をしているらしい。飲酒はイスラムでは禁じられている。それでも、やはり飲む人は飲むのだろう。こうやって、ちゃんと流通している。そういえば、ホームパーティーも、ほとんどがアルコールありだ。


1993年7月1日

いよいよインドにむけて出発する。アブル(ここの使用人の男の子)に、お駄賃としていくらかあげた。彼は別にありがとうとも何とも言わなかったが、それでも何となく、それらしき雰囲気が全身から出ていた。こういう物言わぬ存在との別れが一番つらい。彼のご主人とちがって、私は彼に対して友好的だったし、彼も、私に対して比較的心を開いていたと思うので。

ここの人たちは、いつも私に、使用人は彼らにとって家族の一員みたいなものだと言っているけれど、でも、本当にそう思うのだったら、この幼い使用人たちをせめて学校に行かせてあげればいいのに、と思う。アブルはわずか10歳。教育を必要としているし、だいいち、友達だって欲しいだろうに。この子は、おそらくお祈りの仕方さえ知らない。だれが家族の一員をこんなふうに扱えるだろう?

February 03, 2007

ダッカにて(5)

1993年6月14日

中流~上流階級の子どもたちは、たいてい家庭教師について「タゴールソング」を習っている。バングラデシュには、2つのタイプの伝統的な歌がある。ひとつは昔からの民謡や仕事歌。もうひとつは、大詩人タゴールによって作詞作曲された、いわゆるタゴールソング。前者はもうほとんど姿を消してしまったそうだが、後者の方は今も人気がある。そのわけをAさんに聞いてみたところ、彼はこう言った。

「民謡というのは労働階級の人々のものだが、タゴールソングは知識階級のもの。前者が人気がなく、後者が生き残るのは当然のなりゆき」

だって。外国人の私からすれば、西洋音階を中途半端に取り入れたタゴールソングよりも、ベンガル民謡の方がはるかに興味深いけどな... 


1993年6月20日

バングラデシュには、レストランがあまりない。あっても、ほとんどは中華料理店。そして店内は、なぜかいつも真っ暗。他の客の顔はおろか、肝心の料理さえよく見えないほど。

Aさんが言っていたことだが、バングラデシュには外食文化というものはなく、レストランで食べると、なんとなく後ろめたい気がするらしい。なぜなら、レストランはデート(この国では男女の婚前交際はタブー)や、売春まがいのことに使われることが多いからだそうだ。 ...デートと売春が同類なんて。

今日も、近くのレストランで2人のビジネスマン風のシーク教徒(ターバンを巻いたインド人)と、厚化粧をした2人のバングラデシュ人の女の子が、例の暗闇の中で一緒に食事しているのを見かけた。

January 28, 2007

ダッカにて(5)

1993年5月28日

金曜日。休日。朝のテレビ番組で面白いのをやっている。子どものお話コンテストみたいな番組で、小学生ぐらいの子どもがひとりひとり、短い話をそらで語り、その語り方が上手か下手かを審査員が判断して、得点をつけていくというもの。もちろん母国語のベンガル語で。ちょうど、日本の落語みたいな感じ。内容は分からないが、最後に何かオチがあるような話みたい。みんなびっくりするほど上手。感情込めて、淀むことなく話す。表情も素晴らしい。長い話を完璧に暗記している。

次は、少し趣向が変わって、タブラ(インド音楽に使われる打楽器)の伴奏つきで、ラップみたいな語りをやっている。これも、なかなか面白い。きっと詩か何かなのだろう。

こんな番組、日本にもあればいいのにと思う。ここバングラデシュでは、口頭の文化がしっかりと生きている。そういえば、この国で会った人たちは、普通のなんということのない人たちも、しゃべるのがものすごく上手だ。

そのあとは、コーランの暗唱のための教育番組。これも、私には新鮮で面白い。


1993年6月8日

自分の生活レベルを下げることなく、貧しい人々に手を差し伸べる、というのがここの良心的な金持ちたちの基本的な考え方のようだ。

今日会った、あるお金持ちの男性が言っていた。「私たちはある程度お金があるからこそ、貧しい人々のことを考えなければいけないんだ。そして、お金があるからこそ、貧しい人々の役に立てる。お金がなければ、何もしてあげられない。」

彼がほんの少し、あの贅沢な生活の水準を下げるか、貪欲にお金を集めるのを減らすかするだけで、たくさんの貧しい人々が、今よりもう少しましな暮らしを営めるようになるのではないかと思う。彼は絶対にそんな風には考えないだろうけど。

もしかすると、今の日本って、この金持ちの彼のような考え方の国なのかもしれない。


1993年6月12日

バングラデシュ人は、自分の国にまったくと言っていいほど誇りを持っていない、ということに気がついた。これこそが、この国の何よりの弱点なのではないだろうか。パキスタンから独立する際に、あれほど誇りにし、それを言わば「武器」にして戦った彼ら自身の言語であるベンガル語にしてさえも、インドの西ベンガル州で話されるベンガル語の方が美しいなどと信じている。バングラデシュのベンガル語は田舎くさいのだと。なんて悲しいこと!彼らには、自信を持てることが何ひとつないのだ。

January 21, 2007

ダッカにて(4)

1993年5月10日

停電がほぼ毎日のようにある。それも長時間。こんなのでは冷蔵庫も意味がない。 真っ暗な中、湿気を含んだ生ぬるい風が、花々のむせかえるように甘い香りを運んでくる。何もできないので、Aさんと色々しゃべる。

Aさんは、「いざとなれば人を殺すこともできる」ほど、意志が強い人なのだそうだ。友達からそう言われるらしい。一瞬ぎょっとした。でも、すぐに「ジハード」という言葉が頭に浮かんだ。「人も殺せるほど」というのは、もしかするとイスラム世界独特の肯定的意味をもった表現なのかもしれない。(他の世界では、それが自分をアピールする言葉にはなりえないだろう。) Aさんは自分はイスラム教徒ではないと言っているが、彼の父親は日に5回のお祈りを欠かさない人だそうだ。精神的な影響は受けているにちがいない。

※ あとで調べたら、「ジハード」には「聖戦」、つまり「神聖」という意味も、「戦い」という意味も含まれていないらしい。 「ジハード」の言葉をもって、イスラム教徒に対して「宗教のためには戦争も辞さない」などというイメージを持つのはきっと間違っているのだろう。Aさんのことも、誤解だったかもしれない、と今は思う。


1993年5月15日

ひどい風邪をひいてしまった。このとてつもなく高い湿度と、激しい気温の変化のせいだろう。日本では風邪なんてひいたことないのに。

ここでは服は決して乾かない。日本から持ってきた洋服は特に。したがって自然とこちらのものを着るようになる。こちらの服は薄い綿でできているので、乾きやすい。

ベッドも常に湿っている。ソファーも。 Aさん好みの重厚なアラビア風の布製家具は、バングラデシュの気候にはちょっと無理があるみたい...


1993年5月21日

Aさんの周りの女の人たちは、どうも容貌を気にしすぎる。髪の毛や肌の色、サリーやアクセサリー。髪の毛は多いほどいいし、肌の色は白いほどいい。サリーはたくさん持っているに越したことはないし、アクセサリーはもちろん本物の金や宝石でないとだめ。そういうものに対する貪欲さに、圧倒される。 彼女たちの「外見の美」に対する憧れは、怖いほどに強い。それによってのみ、女性が評価される社会なのだろうか。ん?日本もそうか?

January 20, 2007

ダッカにて(3)











写真は、ダッカで泊めてもらっていたAさんのマンションの居間。
ベタギ村の標準的な家との、あまりの落差に驚く。

田舎には電気も水道もガスもない。テレビなんてもちろんない。家はたいて平屋藁葺きで、室内は土間。


それに比べて、Aさん宅には、冷蔵庫、テレビ、ステレオセット、各部屋にシャワー室。いつもピカピカに磨かれた石の床には豪華なペルシャ絨毯。そして、それを掃除するための電気掃除機もあった。


1993年5月1日

このマンションの屋上からダッカの街を見下ろしている。今日は金曜日なので、休日。でも、街には活気があふれている。モスクから夕刻のコーランの声が聞こえてくる。これを聞くと、ああイスラムの国に来たのだなあと思う。

嵐のあとの涼しい風、合歓(ネム)の大木、ポラーシュ(火焔樹?)の大木、マンゴーの花... 異国での美しい夕べのひととき。

夜、この家でホームパーティ。18人ぐらいの人が来た。ビジネスマンや医者など、典型的な上層社会の面々。日本に5年もいたという夫婦から、薔薇とジャスミンの花束をもらった。

スリランカの大統領が暗殺された。


1993年5月2日

ここでは、みんなだいたい夜の10時頃に晩ご飯を食べ始める。私はまだこの遅い夕食に慣れなくて、6時か7時頃にはもうお腹がすいてきて困ってしまう。

 あとでよく考えると、この時期ちょうどラマダン(断食月)で、太陽が出ている間は飲食ができない時期だったような気もする。ラマダンのときは、夜遅くから、こうやって誰かの家に集まって夜通し飲み食いし、次の日の断食に備えるという話だった。Aさんはあまり何も説明してくれない人だったので、他の人から聞いた話から想像するに、きっとこのときはラマダンだったのだ。


1993年5月3日

10歳ぐらいの男の子が、Aさんの使用人として住み込みで働いている。買い物から料理、掃除・洗濯に至るまでほとんど1人でやっている。彼のお母さんは村にいて、お父さんはダッカのどこか他の家で、やはり使用人として働いているのだそうだ。

ダッカの上・中流階級の家ではどこでも、少なくとも1人か2人の使用人を雇っているらしい。こんな小さな子を雇っている家もけっこうある。もちろん、この子たちは仕事で忙しく、学校へは行かない。

ここの使用人の男の子、アブルは仕事をしながら歌を歌う。聞いていると、なかなか上手い。Aさんにそのことを言うと、アブルが歌うところなど聞いたことがないと言う。そうか、雇い主の前では歌わないんだ。歌は、ひとりだけの楽しみなんだな。


1993年5月8日

いま私は、ここの上層社会の内部から外を見ているように思う。上層社会!日本ではまったく縁のない社会。こちらでは本当に上・下が分かれている。今日のお昼、工場を見せてもらったときに会った、あのお医者さん、大きな家をダッカに6つも持っているらしい。おまけにあの大きな工場。ケタちがいの世界。日本人は、この社会では、誰であろうと自動的に「上」のカテゴリーに入れられてしまうようだけど、あんまり気持ちのいいものではない。第一、私は慣れてない。

ベンガル語には、3種類の命令形がある。最も丁寧な言い方は目上の人に対して、その次のは家族や友人に対して、一番丁寧でない言い方は小さな子どもや使用人に対して、という具合に。召使い文化(?)のない日本から来た私にとっては、この3番目の言い方を使うのに抵抗を感じる。アブルにものを頼むときに。

January 06, 2007

お米つながり

これを書いていて思い出したことがある。チッタゴンのベタギ村での出来事だ。

泊めてもらった孤児院で迎えた初めての朝、朝食を用意してもらったら、なんとコーンフレークと薄切りパン。コーンフレークは、いかにも古そうな感じで、パンも、少々干からびている。いかにも不味そう。食べたら本当に不味かった。こんな西洋のまねごとみたいな朝ご飯、しかも恐ろしく不味いものを、地元の人たちもみんな食べているのだろうかと思い、聞いてみると、ベンガルの標準的な朝ご飯は、「水ご飯」(前の晩、鍋にくっついた残り飯に水を注いでおいたもの)だという。お粥のようなものだ。それにスパイスの効いた豆スープなどを添えて食べる。豆スープは日本で言うとみそ汁のようなもの。その方がぜったい美味しそうだ!

そもそも、コーンフレークなんてこの辺のお店に売ってない。なんで私はコーンフレークとパンなのかと聞いてみると、外国人はみんなこういうものを食べると思い、わざわざチッタゴンの街まで買いに行かせて用意しておいたのだそうだ。彼らにとっては、外国人というのは一種類しかない。

とんだ誤解だ!私は日本人で、日本の主食は、あなた達と同じ、お米なのだと説明すると、みんなの顔がぱあーっと輝いた。「えっ!お米を食べるの?」「な~んだ、お米でいいのか!」と、みんな嬉しそう。私はうんうんと頷いて、次の朝からは不味いコーンフレークではなく、普通のご飯にしてもらった。それと、もちろん豆スープ。

インド亜大陸は米を主食にする地域と、小麦を主食にする地域に別れる。大きく分けると、東・南では、もっぱら米。北・西(中央も含む)では、もっぱら小麦。(もっとも、地域によっては両方食べるところもあるが。) ということで、ベンガル地方(東に位置する)は、もっぱら米を主食とする。でも、ベタギの人たちは、それをベタギ特有の極めてローカルなもので、「外国人」の口には合わないだろう、と思ったのだ。確かに、かつての宗主国のイギリス人も、「西パキスタン(現在のパキスタン)」人も、パン食だ。東パキスタン時代に、自分たちの米食の特異性が強調されたのかもしれない。


米を主食とするということは、食べ物に関してだけでなく、多くの共通点を生み出す。まず第一に村の景観。田植えの時期に水田が広がることだ。水を張った田んぼがあるということは、そこに似たような生き物が生息するだろう。稲刈り時の匂いもきっと同じ。田んぼは、村全体で協力しないとできない作業なので、共同体のあり方もある程度似ているに違いない。 そういう意味では、ベンガル人は、かつて無理やり「同国人」とされたパキスタン人よりも、日本人により近いと言えるかもしれない。

「お米を食べる」という、ただそれだけのことで、人種や言語や地域の違いを超えて、何か存在の根源的なところで一気につながった気がしたのは、なかなか感動的だった。

January 04, 2007

ダッカにて(2)

1993年4月29日

ダッカでは、日本でバングラデシュ関係のNGOを運営する J夫妻のお友達、Aさんのマンションに滞在している。Aさんは、40過ぎの独身の男性で、ダッカの中心地の8階建てのマンションの最上階に、手伝いの男の子2人と一緒に住んでいる。この社会で、この人はおそらく「上層階級」に位置すると思われる。物価がだいたい日本の10分の1ほどのこの国で、家賃が日本円にして7万円ぐらい(ひと家族の2~3ヶ月分の生活費)のマンションに住み、高そうなオーダーメイドの家具をしつらえて、洗濯は全て近くの一流ホテルのランドリーサービスに出している。毎日、おそろしく香りの良い生の花をたっぷり飾って暮らし、屋上でバラも育てている...


1993年4月30日

Aさんは、いつも自動車で移動する。もちろん運転手つき。彼はあまり道を歩かない。そして、私にも歩かせまいとする。歩いたり、サイクル・リキシャ(自転車が前についた人力車)に乗ったりする方が私は面白いし、第一、ダッカは車に乗って移動するほど大きい街じゃないのに。

December 26, 2006

ダッカにて(1)

1993年4月28日

いったん日本に帰国したあと、今、2回目のバングラデシュ訪問。ものすごい湿気で、ものすごく暑い。

とにかくダッカには物乞いが多すぎる。だいたいがお母さんと小さな子供の組み合わせ。その方が実入りがいいということで、子供をどこかから盗んできて物乞いをする女の人もいるらしい。

チッタゴンにて(5)

1993年3月2日

今日、ある年老いたムスリムの大工さんが言っていた。「わしには娘が7人いるが、金がないためにひとりも嫁に出せない。わしゃもう年だし、どうしていのかわからんよ。すべてはアッラーの思し召し次第だ。」

ダウリ(嫁入り時の高額持参金制度)はヒンズー教徒の世界だけかと思っていたけど、どうやらここではイスラム教徒の世界にもそれがあるようだ。

December 23, 2006

チッタゴンにて(4)

1993年2月18日

ここには蛍がたくさんいる。無数の星のように見える。大きな木など、まるでクリスマスツリーのイルミネーションで飾られたみたいになってる。こんな沢山の蛍、見たことない!

この村の人たち、真っ暗闇の中でもお互いが分かるという特殊能力を持っている。夜、道で誰かにすれ違っても、私には、相手が誰なのかまったく分からない。きっと何か視覚以外のもので判別するだろう。

村の構造は有機的だ。何軒かの小さな家が集まって、ひとつのいわゆる「パラ」(集落)をなす。その「パラ」内はほとんど親戚関係で結ばれている様子。このような「パラ」がいくつも集まって、ひとつの「村」となる。さらに、そのような「村」がいくつか集まって、このベタギ地区となっている。こういう構造に何かしら美しいものを感じる。こういうような美しさは、都市にはない。

ここの若い人たちと話をしてみて気がついたことは、若者のうち、読み書きのできる(=教育のある?)者たちは、彼らの伝統的な仕事、つまり百姓の仕事を継ぎたくないらしいということ。彼らはしきりに都市に出たがっている。日本の農家と同じ問題。でも、バングラデシュのように農業を主としている国にとっては、このような問題はかなり深刻なことにちがいない。この村には、沢山の無職の若者たちがいる。都会に出る機会をじっとうかがっているのだ。この村を訪れる外国人につきまとうのは、こういう若者たちらしい。


1993年3月1日

この孤児院に日本から送金することが、本当にこの人たちの助けになっているのだろうか、と最近疑わしく思えてならない。確かに、この援助のお陰で、孤児院の子ども達の健康状態は著しく改善された。でも、これではいつまでたってもこの孤児院が自立できない。それどころか、この孤児院を運営する修行僧たちの生活は、日本からのお金に依存して、どんどん贅沢になってしまっている。運転手付きのトヨタ製の大型車に乗り、電気を無駄遣いし(バングラデシュでは電気代はものすごく高い)、村の人たちが誰ひとりとして持っていないテレビを毎晩見て楽しんでいる。これだけでは飽きたらず、今度は川を使って移動するときのために、自分たち専用のモーターボートが欲しいなどと言っている!

まあでも、それもこれも単に贅沢のためだけではないのかもしれない。一種の自衛のための機器という面も持っているのだ。彼ら少数民族の仏教徒たちは、いつなんどきイスラム教徒に襲われるか分からないという恐怖感を、常に抱いている。この間も、チャクマ(チッタゴン丘陵に住む少数民族)の男性が、平地から来たイスラム教徒たちに殺されるという事件があったばかりだ。この恐怖感があるかぎり、彼らは外国からの援助金に頼って、何とか自分たちの身を守ろうとするだろう。でも、それを資金的に援助するのは、まるで、民族紛争を助長するために武器を輸出するのと同じじゃないかという気がする。外国人に一体何ができるんだろう。難しい...

December 10, 2006

ベタギ村の風景


古い写真を写メールしたので、写りが悪いけど。

10歳ぐらいの男の子が農作業から帰ってくるところ。重そうな木製の鍬をかついでいる。この大きな鍬を、前を行く2頭の牛に引いてもらって、田植え前の田んぼを耕す。牛も子供も、大切な労働力。

December 08, 2006

チッタゴンにて(3)

1993年2月17日

今ここは田植えの季節。いわゆる「冬米」。田植えの前の水田に、みんな何か白い粉のようなものを撒いている。聞くと、化学肥料だとのこと。これのお陰で米の生産量が格段に伸びたらしい。けど、一体、米の質の方はどうなんだろう。ここの米は何かすごく「軽い」ような気がする。栄養が欠けているような。日本で食べる量の3倍ぐらい食べてるのに、すぐにお腹が空いてしまう。ここの人たちは有機農業などにはあまり関心がないみたい。化学肥料みたいに「近代的」なものの方に魅力を感じるんだろう。

今日、この村の構造と村人をおおまかに把握するために、ベタギ村全体を歩き回ってみた。問題は、私が滞在している孤児院のスタッフ(小乗仏教の仏教徒)たちは、私ひとりで外へ行かせてくれないこと。いつも何人かの男の子がボディガードか何かのように付いてくる。この子たちが一緒だと、なんだかんだと絶えず質問してきたり、自分の家に連れて行こうとしたりして、何も見たり考えたりできない。今日も2人ついてきた。

私達がイスラム教徒の集落にさしかかったとき、2人が私に、「ここからはムスリムの村だけど、怖がらなくてもいいよ。大丈夫、彼らは何もしないから。ぼくの同級生だっているんだし」と、言ってきた。私は何も知らないし、何も怖くないのに。明らかに、彼らはムスリムを恐れている。この小さな仏教徒の集落はムスリムの多くの集落によって囲まれている。

結局、ムスリムの村でも、特に何も起こらなかった。彼らも皆親切で、愛想良く私を歓迎してくれた。でも、ひとつ気がついたのは、私はどうやら仏教徒と思われているみたいだということ。仏教孤児院に泊まってるからかな。宗教によって挨拶のことばが違うから、ムスリムの人たちは、私への挨拶の言葉に困っている様子だった。ここでは誰もが、この社会に存在する宗教的カテゴリーのうちのどれかに入れられてしまう。すなわち、多数を占めるイスラム教徒か、少数派の仏教徒、あるいはヒンズー教徒のどれかである。ということで、私は仏教徒らしい。無宗教という状態は、どうも説明不可能のよう。難しい。

もうひとつの問題は、私が日本から来たというだけで、女神か何かのように扱われるということ。これはすごくしんどい。どうにかして、この関係を打ち破りたいんだけど。でも、これも難しそう。どの家でもお茶とビスケットが出され、そのあと必ず、私の名前と日本での住所を紙に書かされる。それを済ませると、家の人は、偉いお坊さんにマントラでも書いてもらったかのように、大事そうにその紙をしまう。このような彼らの態度は、なんだかこわい。

気がついたこと。ここの人々の生活はかなり貧しいけど、首都ダッカで大量に見たような物乞いは、ここにはいない。物乞いというのは都会にしかいないものなんだろうな。

December 04, 2006

チッタゴンにて(2)

1993年2月14日

ベタギ村での最初の朝。みんな早起き。朝はお祈りの時間らしい。6時から始まる。ここの仏教徒達の顔は、他のベンガル人たちと違って、どちらかと言えば黄色人種に近い。ミャンマーに近いからかな。

夕方、ここの仏教のコミュニティの子どもたちと一緒に、この孤児院で延々と歌を歌った。みんな歌をびっくりするほどたくさん知っている。ほとんどが、いわゆる「タゴール・ソング」(詩聖タゴールが作詞作曲した歌)。ものすごく一所懸命歌う。みんながみんな、歌の才能を持っている気がする。何人かが、私にいくつか歌を教えてくれようとしたけど、歌詞も分からないし、メロディーも難しいし、私はすぐに疲れて諦めてしまった。でも、子どもたちは疲れない。結局、声が枯れるまで、3時間以上も歌い続けていた。


1993年2月15日

驚いたことに、この村で会う人の誰もが、何らかの日本語を知っている。少なくとも、「こんにちは」と「さようなら」は。 何人かの子どもは、日本の歌まで知っている。こんな奥地で... 一体なぜだろう。


1993年2月16日

理由が分かった。このベタギ村に高校を建てた日本のロータリークラブ関係の人たちが、毎年ここへ視察旅行に来るたびに、日本の歌などを生徒たちに教えて帰るみたい。 チッタゴン港にある日本の会社に雇われている人も結構いるみたいだし。ここの人たちにとって、日本はまるで理想の国か何かのよう。日本人だというだけで、ものすごい憧れのまなざしで見られる。丁重な扱いを受ける。なんか変な感じ。


 

November 26, 2006

チッタゴンにて(1)

インド東部のベンガルというところは、かつて、ベンガル語を話す人々が暮らすひとつの「くに」だった。しかし、植民地時代、イギリスがインド亜大陸をヒンズー教徒の国インドと、イスラム教徒の国パキスタンとに無理やり分けた血みどろの「分割統治」の際に、ベンガル地方もふたつに分断され、西半分はインドの西ベンガル州に、東半分は西方はるか遠く離れたパキスタンの「飛び地」としての「東パキスタン」という国にされてしまった。その後、東パキスタンではベンガル語の使用が禁じられ、西パキスタンの国語ウルドゥー語が強要された。しかし、母語ベンガル語への愛着を捨てきれなかった東パキスタンの人々はベンガル語の使用を主張して独立運動を起こし、現在のバングラデシュ(「バングラ」=ベンガルの 「デシュ」=国)になった。アジアの最貧国のひとつ。国内にはいわゆる「先進国」からのNGO団体等がひしめく。 私が訪れたベタギ村にある孤児院も、日本のそうした団体に支援を受けていた。ミャンマーとの国境近くのため、非ベンガル人(「少数民族」)の仏教徒が多い地域だ。


1993年2月13日

今日、バングラデシュのダッカから汽車とボートを乗り継いで、チッタゴンのベタギ村に着いた。

なんて素晴らしい景色!建物という建物はぜんぶ泥と藁でできている。舗装された道やコンクリートの建物がひとつもない。たっぷり生えた木々の緑。牛。山羊。直線というものが全く存在しない世界。全てのものに色がついていて、世界が濃い。視界が目に優しい。全てのものに生命が宿ったような、こんな濃密な景色の中に身を置いたのは、生まれて初めてだ。まるで、タイムマシンで「日本昔話」の世界に突然入り込んだような感じ。現実感がまったくない。

初めての海外体験って、みんなこんな感じなんだろうか。とても不思議な気持ち。